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2024年1月30日火曜日

『最後の喫煙者』を読みました


 筒井康隆さんの『最後の喫煙者』を読みました。『最後の喫煙者』は新潮文庫の自選ドタバタ傑作集です。

読もうと思ったきっかけは、以前(数十年前)、奇妙なドラマでこの表題作のドラマを見たことがあり、それの原作である小説があると最近知ったことで、読んでみたいと思ったわけであります。

表題作は、ストーリーもおぼろげながら覚えており、楽しめることが出来ました。

喫煙者が差別・弾圧されるパラレルワールドで、主人公が数少ない仲間とともに逃げながら抵抗するストーリーで、ついにその仲間も倒れ、主人公は最後の喫煙者となってしまう。といったストーリーでしょうか。

当時のドラマでは、その主人公が、喫煙者の最後の生き残りとなり、逆に保護されようとしていました。しかし、不慮の事故で命を落としてしまい、博物館に展示(剥製?蝋人形?)されてみんなの見世物になってしまうというエンディングになっていました。とても怖かったのを今でも覚えています。

このほかにも、この本には、スプラッター系の趣味を持つ医者のお話とか、老いたターザン、羽柴秀吉のif、のようなお話も収録されていました。

私は、収録されている全ての作品を読ませていただきましたが、全体的に好きなジャンルではないということがわかりました。

おそらく、私は根がまじめ(笑)な性格であるために、この小説の主人公たちの行動をどこかで許せない!と思いながら読んでしまったのではないかと思います。被害者がかわいそうだ、迷惑である、そう思いました。

そして、ひとによっては情景描写であったり、登場人物の心境などが丁寧な文章で表現されるべきところを、説明はしないなどどメタ的な一言で片づけられている場面もあり、小説を読むうえで楽しみにしている部分が根こそぎ削られてしまっていると思いました。この人の小説は、そういうものだと思って読まなければいけないのだとも思いました。

まとめとして、この本を読んで得たものは、私は、この不思議な世界観系のジャンルは苦手であるということでした。

2024年1月3日水曜日

太宰治さんの『人間失格』を読みました


 太宰治さんの『人間失格』を読みました。

人との付き合い方がよくわからない主人公が、お道化るなどして自分の本心を偽りながら生きていく姿が描かれています。太宰治さんの半生をもとにした、自伝的小説であると言われることもあります。

この主人公は、小学校?中学校?でわざとお道化た姿をクラスメイトに見破られて驚いたり、故郷の有力者だった父から物理的に精神的に逃れるために上京し、非合法活動に参加してみたり、知り合った女性と心中して女性は死に、自分だけ生き残って自暴自棄になってみたり、平穏な生活を送ろうと思っても、幸せにあと一歩のことろで手が届かず、薬物中毒になってみたり、最後は廃人のように空っぽになって生きる羽目になってしまいます。

私はふと、夏目漱石さんの『草枕』の冒頭の一文を思い出しました。

“智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。”

本編の主人公も、反論すれば面倒だからあえてそのまま相手の言い分を聞いてみたり、生きづらさを感じたりしながら肉体的に精神的に破滅の道を歩んで行ってしまいますね。

でも、実際私も普段は平静を装って生活していますけれど、生きづらいと思うときもありますよね。会話のキャッチボールがうまくいかくて、あとで反省することがなかった時があったであろうか疑問に思うくらいです。

反省して、改善して次に良い結果を出せるようにしなければいけないのですね。幸い私はお酒が全く飲めないので、酒におぼれることは考え難いですが、ヤケ食いする可能性は大いにあるので気を付けたいと思います。

この小説を読み終えると、いつも気分が落ち込んでしまいます。この主人公は、私よりも壊滅的な人生を送っていながら、その一方で人に甘える術を持っているので、うらやましいと思うところもあるからです。私の場合は、家で布団にくるまって、ただ新しい太陽が昇るのを待つことしかできません。

生きづらい性格ですが、前を向いて歩いていきたいと思います。

そう思いました。

2023年9月16日土曜日

『ノルウェイの森』を読みました


 『ノルウェイの森』を読みました。

『ノルウェイの森』は村上春樹さんの1987年の長編小説だそうです。

あらすじは…、

「主人公のワタナベが、学生時代に出会った数多くの女性とのあんなことやこんなことを回想するお話…」

とても簡単にまとめてしまうと、こんな感じでしょうかね。。。

文書はとても読みやすく、登場人物がいる場所の風景もありありと具体的に想像でき、物語の世界に入っていくことができました。私が学生時代に入った大学の近くの洋食屋さんとか、地元の小さな書店とか、林間学校で宿泊した合宿所とか、ロールプレイングゲームに出てきた建物とかを想像し、自分の記憶と重ね合わせながら読みました。

それはよかったのですが、私にとってワタナベの思考回路が不思議でたまりませんでした。ワタナベの脳ミソがおち○ん○んに支配されているんじゃないかと疑ってしまいました。

ワタナベの前に新しい女性が登場するたびに、私は「やれやれ」と思ってしまいました。なぜならば、物語を読み進めていくと、ワタナベと出会った女性は結構な割合で「やれやれ」と思う展開に発展していったからです。この件については多くは語りますまい。

私がこの小説で気に入ったのは、緑という女性がワタナベに自分の理想を語るところですね。

緑は『苺のショート・ケーキ』を例に出してワタナベに説明をしますが、ワタナベは理解できないようでした。私は、このくだりを読んで、緑が何を言わんとしているのかがスッと入ってきました。

喩えるなら将棋でいうところの「三手の読み」のような、1.自分はこうする、2.相手はこうする、3.そうしたら自分はこうする、という理路整然とした説明が出来るようになりたいものです。

あと、ワタナベの上級生で永沢という男性が出てきます。永沢は頭がよくて(色々な)行動力がある人物として登場し、大学卒業後は外務省に就職して海外赴任もするような人物として描かれていました。

そんな永沢ですが、私は、この「永沢」という字面を見ると、どうしてもあの某国民的アニメの登場人物(タマネギ頭)が浮かんできてしまいます…。

永沢はワタナベに対して、人生において大切なことについてすごく立派なことを論理的に語るのですが、私の頭の中の映像には、永沢はどうしてもあのキャラクターが浮かんできてしまって…🧅。


私は、この小説を読みながら、この小説に登場してくるような人物と現実に会って交わるようなことは絶対ないだろうなと思いました。それは、私と彼らとでは、住んでいる世界も、思考も、情熱のようなものも違っているように思えたからです。実際にこの登場人物のような人がいるかはわかりませんが、いたとしても自分から話しかけることはないだろうし、向こうも私に話しかけることはないと思います。

身の丈に合った生き方をしたいものだと思いました。

2023年9月10日日曜日

『アルジャーノンに花束を』で読書感想文を書くには


『アルジャーノンに花束を』を読みました。

この本は、ダニエル・キイスさんの著した小説の日本語訳版です。

『32歳になっても幼児なみの知能しかないチャーリイ・ゴードン』は、大学の研究でネズミのアルジャーノンと、どちらが迷路を早く抜けるか競争をさせられていた。あるとき、チャーリイは、アルジャーノンが受けたのと同じ頭がよくなる脳の手術?注射?を受けたところ、みるみるうちに知能が向上し、その大学の先生よりも高い知能を得ることができ、理解できることが格段に多くなった。
しかし、知能は高くなったものの、現実はチャーリイの思うような理想的なものではなく、他人とすれ違い、孤独を感じたり、焦りや苛立ちを覚えたりする。
そうしているうちに、アルジャーノンには徐々に知能が退化していく様子が見られるようになり、チャーリイは、自分の行く末を案じるようになる。。。

本のオビには、「あなたに問いかける物語-頭が良いって幸せですか?-」と書かれていました。

『アルジャーノンに花束を』を読んでみて思ったことは、私がチャーリイ・ゴードンだったら、物語の後半部分でどのような行動をとっただろうか?ということです。
私はチャーリイと同じように、家族に会いに行っただろうか?チャーリイは、幼少のころから離れて暮らすことになるまで、母親からあのような接し方をされてきていました。それでも、チャーリイは彼自身にそう遠くない時期に訪れる現実を知ったとき、家族に会いに行きました。
私がチャーリイと同じ境遇になったら、もしかしたら、家族にも誰にも会いに行かずに、どこかでその時を待っているのかもしれません。
チャーリイが手術を受けて得たものは、知識を習得する知能だけではなく、人とのつながりだったのだろうと思いました。

という感じで、もう少し具体的に、言葉を選びながら、推敲しながら感想文を組み立てていきたいと思います。

他にはどのような感想文の展開があるだろうか?それについて少し考えてみたいと思いました。

第一は、前述の通り、チャーリイに主眼を置いて感想文を書くのが一番文書を組み立てやすいと思います。自分がチャーリイだったら、あの場面でどのように思い、行動しただろうか?とか。

キニアン先生は、本当のところチャーリイのことをどう思っていたかのか?この小説は、チャーリイの経過報告という日記のような文体で進められており、チャーリイが見たり感じたりしたキニアン先生の様子しか描写されていません。チャーリイのために献身的に接してくれていましたが、本当のところキニアン先生がどう思っていたのかは、読者の想像に委ねられているように思いました。

チャーリイの妹さんは、騒動の後でチャーリイと再会し、話をすることができました。妹さんとチャーリイとの関係性で感想文を考えてみてもいいかもしれないと思いました。

手術を行った大学の先生の視点で考えてみても面白いかもしれません。チャーリイにも、チャーリイの家族にも、手術(実験とも言える)のメリット・デメリットについて説明はしている様子でした。しかし、チャーリイとは手術の前後ともに同じ目線で会話ができる状態ではありませんでした。手術前は理解力が足りなかったし、チャーリイ自身も頭がよくなる手術を切望していました。手術後は、先生らはチャーリイをアルジャーノン同様実験台にしか思っておらず、人間として扱ってもらえていなかったと思っていたからです。

この本は、原文は英語で書かれているそうです。物語の序盤は、手術を受ける前のチャーリイが拙い分で経過報告(日記)を記述しています。日本語訳では、ひらがなを多用したり、句読点を打たなかったり、実在しない漢字を使うことでそれを表現されているようでした。原文で読むことが出来れば、その辺の文書や表現の対比も面白いものになるだろうと思います。この小説を原文で読めるようになるために、外国語を習得したいと決意することもまたいい心がけなのではないかと思います(^^)

あと、この小説には登場人物がたくさん出てくるので、感想文を書くとすると、今このセンテンスは誰について書いているのか、主語を明確に記述する必要があると、今まさにこのブログを書いていながら、私は思いました。

本来であれば、この小説をもっと時間をかけてじっくり読みこんでから、感想文を書くべきであると思います。しかし、私は飽きっぽい性格で、読んでる途中で疲れてきてしまい、勝手に「ここは重要でないかもしれない」と思った部分は流し読みしてしまいます。さらに、私の本棚にはまだ読んでいない本が「積読(つんどく)」状態にありますので、これを消化したい気持ちもあり、どうしても一冊あたりに掛けられる時間が限られて(実際は時間制限をかける必要は全くありませんが)しまっています。

そんなこんなで、『アルジャーノンに花束を』は読む人によって色々な考えをもたらす小説だったのではないかと思います。ちゃんちゃん。

2023年8月21日月曜日

『だれでも書ける最高の読書感想文』という本を買いました


齋藤孝さんの『 だれでも書ける最高の読書感想文』を買いました。

まだ読んでいないので、これから読みます(笑)。

私がこの本を読もうと思った理由は、まともな読書感想文を書いてみたいので、そのための方法について知りたいと思ったからです。

改めて思い出してみると、私の読書感想文の思い出にはろくなものがありませんでした。

読書感想文には、学生時代ずっと悩まされ続けてきました。悩みは、(本を)読めない(感想文を)書けない(図書を)探せない、の三重苦でした。

読書感想文という文字を見ると、必ず小学校のあたりの頃の記憶がよみがえります。

学校の先生は、揃ってこう言いました。

「自分の好きな本を読んで、その感想を自由に書いてください。書き方に決まりはありません。」

私は、自由に書くということがとても苦手でした。今も苦手ではあります。読書感想文を書けと言われても、何をどのように書いていいのかわからないし、本を読んでも、「へぇ、そうなんだ」で終わってしまい、感想を持つということがなかったことも原因だと思います。

参考にさせていただけるような読書感想文の見本を読んでみたかったのですが、先生は誰もそれを見せてはくれませんでした。自由だから、誰かの感想文を参考にしてはいけないという理由だったと記憶しています。

さらに思い返してみると、長期休業中の宿題は、「夏休みの友」と「自由研究・工作」と「読書感想文」だったような気がしますが、読書感想文は一度も提出した覚えがありません。小学生時代に、活字の本を読んだ記憶が全くありませんから。

たぶん、登校日まで間に合わなかったことにして、そのまま知らんふりをして時間が過ぎるのを待っていたのだと思います。読書感想文の提出が忘れられる日まで。

。。

。。。

…あれから数十年。

今、私は、過去に成し遂げられなかった苦い思い出を打ち破るために、個人的に小さな小さなアクションを起こしていきたいと思っています。

途中で挫折した本を最後まで読み切れるようになったり、他にはあれだったりこれだったり…。

その中の一つに、読書感想文を書きあげてみたいという目標があります。

誰に見せるわけでもありませんが、その本を読んだ証拠として、しっかり読んだ人でないと書けないような内容についての言及であったり、それについての考察であったり、感想であったりを、理路整然かつ淡々と言葉を紡いで、読書感想文にしてみたいです。それが出来るようになったところで、何かが自分の人生が変わるようなこともないと思いますが、過去の悔しい思い出にひとつケジメをつけられるのであれば、それはそれでいいのだと思います。

さて、そこで最初の本に戻ります。

この本をパラパラとめくってみた程度での印象では、読書感想文を書くための、本の選び方や、読書に対する姿勢(能動的にではなく主体的にとりかかる)、文書作成のための具体的な方法(印象に残った箇所をメモる、とか)、自分だけの感想文にするためのテクニック、感想文を書くための本の紹介、について、平易なわかりやすい文章で書かれています。

著者の読書感想文は掲載されていませんが、何かのコンクールの出された感想文は載っていました。

その感想文を読んでみましたが、感想文の文字一字一句がキラキラ輝いていて、私は直視することができませんでした。むしろ、逆の意味で目を逸らしたくなるような文章でした。とてもピュアで純粋な心で図書に向き合っていて、登場人物に寄り添っていて、鬱蒼とした深い森の奥に清く澄んだ湖を見たような、そんな感想文でした。

これが読書感想文というものか、と、“本物”の実力を見せつけられたような思いがしました。

この本に小学生の頃に出会っていれば、読書感想文はもっと簡単に書けるようになっていたのかもしれないと思いました。学校の先生も、ノーヒントではなく、例えばの話しとして、この本に書かれているようなテクニックについて教えてくれれば、私のような感想文落第生は少なくなるのに…と思いました。

私は、この本に書かれているテクニックを身につけて、本を読んで、感想文を書けるようになれば、私自身が少し成長できたと感じることができるのではないかと期待しています。そのためには、この本をいち早く読み始めなければなりません。

そう思いつつ、私は今日もまた、YouTubeアプリを立ち上げるのでありました…。

2023年8月9日水曜日

『なぜ僕らは働くのか』を読みました


池上彰さん監修の『なぜ僕らは働くのか』を読みました。

この本は、学校になじめなかった主人公の少年が、大人や同級生との交流を通して、自分の将来について考える漫画ページと、それを補完するような形で、世の中の仕事はどうなっているのか、自分の将来の仕事を見つけるにはどうするのか、等を例を挙げながら解説するテキストページとが、各章毎に交互にでてきます。

この本は、私にとってとても耳に痛いものとなりました。

私は、学生時代は、親や先生に怒られないように、かつ、必要最低限のエネルギーで生きるために、将来のことを特に考えずに、勉強だけを頑張って年を重ねてきました。将来なりたい職業は、親や先生に怒られないように、「学校の先生」や「公務員」なんて書いていました。先生にもいろいろ種類があるし、公務員の職務内容もいろいろあるのに、そのことについて深く考えることはありませんでした。

大学生になり、大学生活も後半に差し掛かると、周りの友人らは就職活動を始めていました。私は、なりたい職業がなかったうえに、調べようともしなかったので、とても苦労しました。その苦労は今も続いています。。。

この本では、学生のうちから、「世の中の仕組み・仕事を知ること」「自分が幸せになる方法」「小さなことから行動すること」が、これからの人生を生きていくうえで重要であると書かれています。

おまけに、「勉強していれば、仕事が与えられるわけではない」とハッキリ書かれています。

私のこれまでの人生が、いかに消極的であったかを、改めて思い知らされてしまい、しょぼーんとしてしまいました

(´・ω・`)ショボーン

しかし、私は、この本から希望も与えられました。

それは、いつ始めても遅くはないということです。

今からでも、これからについて考えて、アンテナを張っておくことで、人生をよりよくするためのヒントがある日突然見つけられるかもしれない的なことも書かれていました。

私は、今漸く、この本にとっての“スタートライン”に立ったような、いや、スタートラインがあることを教えられたような気持になりました。

私は、ただ時間の流れに任せて年齢だけを重ねているという不安を感じながら生きてきました。先が見えない、未来が深い霧に包まれてどうしようもない感覚を抱いていました。それが、今、この本を読んで、少し変わったような気がするのです。

未来が見えないのは相変わらずではありますが、見えないなりに歩みを進める方法がある。ということを知れたことが、私にとっての最大の収穫になったような気がしました。歩き始める方法があると分かったので、これからは、その方法が、いったいどのようなもので、どうすればそれを自分が取得できるのか、取得したらその先に何かが見えてくるのか。千里の道を歩き始める一歩を踏み出すスタートラインが見えてきたのであります。

ブルーハーツさんとか、吉田拓郎さんとかの曲を聴いて、歌詞を口ずさんで、ずっと昔から教えられてきていたと思いますが、改めて、自分の将来を決めるのは自分なんだということを痛感しましたね。このお話もいつか書きたいと思います。

自分の残りの人生があと何百年あるのかはわかりませんが、過度にあきらめたり、いじけたりせずに、世の中に飛び交っている情報にアンテナを張って、「楽しい人生であった」と口元に笑みを浮かべながら臨終を迎えられるように生きていきたいと思いました。

2023年6月22日木曜日

『硝子戸の中』を読み終わりましたが…


 

今しがた、夏目漱石さんの『硝子戸の中』を読み終わりました。

著者が体調不良で自宅?で療養しながら、今までの人生の記憶とか、幼少期の思い出とか、地元の風景とか、宅を訪ねてきた人とのやりとりとか、を比較的短い文章でまとめた(新聞に連載されていたそう)随筆に分類される書物だそうです。

一つ一つのお話が、興味を持って読めたり、字面を追うだけで何も読後の記憶がなかったりで、備忘録としてブログに書くにも記憶の掘り起こし作業が難しいです。

結局、あとがきの解説を読んで、硝子戸の中で自身の思い出を整理したことによって、生きる活力が生まれて、最後は硝子戸を開けることができた、みたいなことが書いてあって、それでようやく全体像をつかませてもらった感じです。


こういった文書を読むたびに、私は、自身の記憶を辿って、それを不特定多数の人に読んでもらえるように文書化する作業に憧れを抱きます。

これまで何十年と生きてきましたが、それこそボーっと生きてきましたので、学校の日記の宿題も苦手だったので、出来事を文書化する作業というものをほとんどしてきませんでした。

私はすぐに影響されるので、「私もエッセーを書いてみたい!」と思うことがあります。

しかし、文書化された人生の記憶のストックがないために、その取っ掛かりにすらつくことはできません。

できれば私も…

“あれは、○歳のときだった。その頃、この町には○○があって、友人の○○と学校が終わると、○○に○○しに行ったものだ。当時○○には兄がいて、彼の兄からも可愛がってもらった。「○○、あいつはうそをつくから信用しちゃだめだ」。うっかり、私は○○の言葉を信じて、○○してしまうところであった。してしまっていたら、怪我をしてしまっていたかもしれない。”

…などと、スラスラと書いてみたいものである。

話は戻りますが、『硝子戸の中』の中に、ほんの少しだけ、『吾輩は猫である』に関係ありそうな猫のお話が出たのが、点と点がつながったようなうれしさを覚えました。

まさしく自分の言動そのもののような、ふらふらとした感想文になってしまいました。

おしまい

2023年4月20日木曜日

『国家の品格』を読んだことがありました


藤原正彦さんの『国家の品格』をいつぞや読みました。

例によって、本を読んでからずいぶん時間が経ってしまっているので、本の内容がおぼろげになっています(言い訳)。

この本は、作者がこれまでの経験・体験によって得た、日本人的な思考を、諸外国のそれに飲み込まれてはいけない、ということについて、さまざまな事例を挙げながら解説されている内容だったと記憶しています。

この本の中で作者が一番訴えたかったことではなかったかもしれませんが、読み終わってから、私がぜひ実践したいと思ったことは、「教養を身につける」ということでした。

作者は、外国での異文化コミュニケーションの体験によって、教養を身につける必要性について語ってたと思うんですよねー(;^_^A

違ってたらごめんなさい。

ここからは私の考えを少しだけ書きます。

この貨幣経済の資本主義社会で生きていくためには、お金が必要だといわれています。金融の知識、資産管理、税金や社会保険等。。。知らないとお金に苦労することは間違いないと思います。お金の知識をしっかり身につけることは、生きていく上で必要なことだと思います。お金がないと生きていけませんからね。すべて自給自足で生活できればお金はいらないと思いますけれど、私の欲求を満たすためには、お金を通じてそのサービスを得なければなりません。それは、たとえば、おいしいラーメンを食べるとかです。

しかし、お金に知識だけではいけないのだと思いました。もちろん、お金に知識が不要であるということではありません。ゼロか100かの論理ではなく、それだけではいけないのではないか。私を私たらしめるものの構成要素の一つとして、教養も幅広く身につけておかなければならないだろう、ということです。

それは、人とお話をするときに、話題の引き出しは一つでも多くしておくことで、コミュニケーションを円滑に進めるためのツールに、教養がなり得るのではないかと思ったからです。

教養と関係があるかはわかりませんが、ある時、年の離れた人と話をしていて、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の書き出し「月日は百代の過客にして…」を諳んじたところ、その人に好印象を持たれたことがあります。その時私は、話題の引き出しは多い方がいいなと思った記憶があります。

 特に私は、経済金融の知識を身につけるのが苦手でして、その代わり教養に分類されるものを身につける方が性に合っているように思います。

じゃあ、教養って何だ?って話になりますけれでも、それはまだわかりません。今はまだ教養と言えるような立派なものは身についていませんので、この場でお前の教養を披露してみろ!と言われても無理であります(;^_^A

これから少しずつ少しずつ自分が面白いなと思ったことや、古典、いろんなジャンルの本を読んだり聞いたりしながら、探していきたいと思います。

とにかく、この本は平易な文章で人間くさい熱い思いによって日本人の「国家の品格」について書かれているようです。話し言葉でサクサク読み進められたことだけは覚えています。そして、日本人的な思考・思想を大事に守っていくべきであると思わされました。

とてもいい本だったと思います。また機会があったら再読したいと思います。

2023年4月9日日曜日

『転職の思考法』の本を読みました。


 『転職の思考法』の本を読みました。

この本は、(架空の?)転職を考えている人と、転職エージェント、転職をした人が登場します。

転職を考えている人が、久しぶりにあった人から転職エージェントを紹介されて、その転職エージェントが、転職のための考え方を教えていくというストーリー仕立てで進んでいきます。

ストーリーを通じて、転職するための考え方や、転職先の会社を見るポイント等についての、一つの見方、考え方についてまとめられたものだと思って読みました。

そして、セクション毎に、エージェントの言ったことをメモする、という形で、要点が簡潔にまとめられてから、ストーリーが進んでいきます。その都度、理解を深めながら読み進めていくことができました。

まあ、実際のところ、私は転職は考えていません。何か本を読みたいなーと、アマゾンで検索したところ、この本がアマゾンで売れている本ということで、読んでみることにしたのでした。

この本を読んだのは、もう一年以上前のことです。読んでからずいぶん時間が空いてしまったので、うろ覚えでの感想になってしまいますがご容赦くださいませ。。。


…。


なんか、この本を読んで私はとても不安になりましたね。私が現在の職場で積んできた経験は、ほかの会社でも通用するものであるのかどうか?いや、しないだろう、と。

私の職場は、国家資格等専門職が集まるところです。その中に、ハローワークの職業訓練を経て入社し、上司にゴマをすりながらキャリアを積んできました。何度かの異動を経て、現在は、パソコンの前で一日中エクセルを閉じたり開いたりする仕事をしています(笑)。もはや果たしてこれは経験と言えるのか?と言った感じです。強いて言えば、対人折衝能力(という名の「ゴマすり」)は少し身には付いたかな?とは思いますが。これからは、他の環境でも通用するようなスキルも身に付けることを念頭に置いて、経験を積んでいく必要もあるな、と思いました。

と思ってはみたものの、何から手を付けていいのかわからない状態であります。とりあえず、自分の考えをまとめて、言語化できるようにすること、は最低限、人として最低限必要なスキルになるのではないかと思います。

そのため、本を読んで、その感想をブログに文書としてまとめる作業から始めてみているところです。

転職の他にも、仕事をしていく上で心配事があります。それはAIです。

これからAIが実用化されて、AIが仕事をしてくれる時代がやってくるのは確実だと思っています。そんな時代に、人間としてどうあるべきか?その時、私はどうすればいいのか?求人はいつまであるのか?

そんなことを考えているうちに、私はまた深い眠りにつくのでありました。。。

2023年3月27日月曜日

一度読んだら絶対に忘れないシリーズの本を


読もうと思いましたが途中で挫折してしまいました(T_T)

読もうと思ったのは「地理」でした。


思い起こせば、私は学生時代、地理が大の苦手でした。

中学校のテストでは、地理・歴史・公民で一つの社会という科目でした。前述のとおり、私は地理が苦手でしたので、いかにして歴史と公民でテストの得点を稼ぐかに対策と取っていました。


小学生の頃は勉強しなくてもテストで高得点をもらえていた私が、中学生でそういかなくなり始めたのは、英語と地理が原因でした。


地理は、まずもって何を勉強しているのか?ゴールが見えないことが苦痛でした。

逆に、歴史は、現代に来ると勉強の終わりが見えるので気楽でした。

そのほかの科目もゴールが見えませんでしたが、なんとなく勉強の内容が理解できたので、それなりにテストの点数をもらうことはできました。


このブログで、私がいかに地理が苦手であったかを書きたいのに、地理で勉強していた内容、授業の内容、教科書(当時)の内容、ほとんど覚えていないので、詳細な説明ができずに、悔しい思いをしながら、今タイピングをしています。

たとえば、テストで、図の円グラフはある生産物の生産量を地域別にあらわしたものです。この生産物を答えなさい。とか、生産量第2位の地域を答えなさい。とか。授業の内容がわからなかった私にとって、その問題を解くための手掛かりが全くなく、常に「なんとなく」解答していました。

図のグラフは、ある都市の年間降水量と気温を表しています。。。雨量が少ないから砂漠かなぁ…。


中学校の地理がこのような出来だったので、高校では地理を選択せず、日本史と世界史を選択しました。ちなみに理科は、地学と化学を選択しました。

そのため、私の地理の知識は、中学校レベル未満であるといっても過言ではありません。


さいきんになり、読書をするようになりました。この勢いに乗じて、地理の参考書を読んで、人並みの地理の知識をつけたいと思い、この本を手に取りました。

はじめは、緯度経度でした。ふむふむ。これは知っている…。

次は、地形でした。ふむふむ。これは地学でやったぞ…。むむ。この図で陸はこっちか?こっちは海か?天橋立は観光名所で有名だ…。これなら読めるぞ…!?

次は、気候でした。名前は聞いたことがあるが、名前と気候が結びつかない…。気候と作物も結びつかない…?日本は何気候だ…??待て待て、高緯度ってどっちだっけ???


一度読んだら忘れないはずなのに、何度読んでもなかなか覚えられず…。


結局、途中で読めなくなってしまいました。書いてある言葉を読むことはできるのですが、その内容が理解できないのです。英語の音読はそれっぽくできるけれども、訳すことはできないみたいな感じでしょうか。

わかりやすく解説してくれた本にもかかわらず、理解できなかったため、とても悔しく思います。

いつか再度この本にチャレンジしたいと思います!!

2023年3月6日月曜日

「門」を読みました。


 夏目漱石さんの小説「門」を読みました。


門のあらすじは、Wikipediaによると、

宗助は、かつての親友である安井の妻である御米を得たが、その罪ゆえに、ひっそりと暮らさざるをえなかった。そのため弟小六に関する父の遺産についてもあまり関心を示さず、小六を引き取り共に暮らすことになる。しかし気苦労の多い弟との同居のためなどで、御米は寝込んでしまう。大事にはならなかったが、やがて安井の消息が届き、大家の坂井のもとを訪れることを聞く。宗助は救いを求めるために鎌倉へ向かい参禅したが、結局悟ることはできず帰宅する。

すでに安井は満州に戻り、小六は坂井の書生になることが決まっていた。御米は春が来たことを喜ぶが、宗助はじきに冬になると答える。

というものだそうです。

もちろん最後まで読みましたけど、あらすじをまとめるのがまだ不得意のため、引用させてもらいました。

この小説を読みながら思ったことは、あくまで個人的な意見ですが、少し消化不良な終わり方かな?と思いました。

それは、この「門」前に読んだ、同じく夏目漱石さんの「それから」が終盤で今までギリギリで保たれていた日常が崩壊してしまう様に心躍ったためだと思います。

「それから」のノリで「門」を読み進めていたので、この門をくぐり、出てきてから、この安井と何かしらのやりとりが始まるものと思っていましたが、結局、主人公と出会うことはなく(私の記憶違いでなかったら、この二人は会わなかったはず…)、淡々と御米との生活に戻っていく…。

なんか、期待していた気持ちが肩透かしを食らったようで、読み終わってモヤっとしてしまいました。

内容についてはそんなところですが、小説を書くということはさぞ大変だろうな、ということは改めて思いました。

詳説に出てくる場面において、季節はいつで、どのような建物で、だれがどこで何を…、といったことを、読者に飽きさせずになおかつ過不足なく言葉で描写をするという作業は、根気のいる作業であろうと思います。

五感で感じた外部からの刺激を、言葉に置き換えるというのは、才能というようなセンスのようなものがないとできないなーって思いました(小並感)。

とは言うものの、物語中盤の安井と会うことになるかもしれないとなったときの主人公の焦りのようなものは、私もドキドキしながら読み進めていました。

毎度毎度つたない文章で申し訳ございません。ご清聴ありがとうございました。

2022年10月23日日曜日

『それから』おもしろかった


 夏目漱石さんの小説「それから」を読んだ。「それから」は、1909年に新聞に連載された小説だそうである。

 あらすじは、親のすねをかじりながら、親元を離れて親の仕送りで生活している無職の代助が主人公のお話。ある日、昔からの友人平岡と、その妻で死んだ共通の友人の妹である三千代と再会した。代助は三千代へのかつての恋心が再燃してしまう。一方で、親からはお見合いの話が来て、兄や嫂も結婚するよう代助に勧める。代助は、自分が納得しないことはしない主義で、結婚もしたいと思っていないからしないとか言って家族を困らせている。そして、代助は、平岡のいない隙を狙って三千代と会い始める。とうとう代助は三千代に自分の思いを告白することを決意するが…。

 というイメージで読んでいた。

 私は、この「それから」を読み終わったときに、まるで一本の映画を見終わったような、ドラマティックな展開にしばし呆然としてしまった。(映画を見終わったような感覚は、小説だから当然ではあろうが、この小説は特に久しぶりに心を揺さぶられた展開であった。)そして、本の表紙を見ながら、さながら映画のエンドロールを見ているがごとく、小説の余韻に浸っていた。

 うまく表現することができないが、代助は、自分のために行動を起こして、それは自分なりに運命の歯車のようなものを回し始めていき、あと少しのところで歯車がかみ合って運命が動き出すはずだったのだ。しかし、運命は残酷なもので、そのために犠牲にしてきた家族や友人との関係が崩れ去ってしまったのであった。

私は、代助は家が苦手だったのかもしれないと思った。ここでいう家というのは、建物のそれではなく、家族等の共同体のことである。だから、仕事が多忙なためにもともと会えない父に会う機会を更に少なくし、父が持ってきたお見合い話も断り続けていた。その一方で、無職で無収入だった代助は父を当てにすることしかできなかったため、その相反する現状に折り合いをつけるために、家を離れて暮らしていたのでしょう。

家を離れると、自立した生計がなっていなくても、所謂大人になったと勘違いしてしまい、言動も身の丈に合っていない、父からすると何を言っているんだ?と思われるようなことになってしまったのだと思う。それは、私が大学生の時に、家を離れて一人暮らしをしていたときに、そのように大人になったつもりになったと勘違いしたことから、代助もそう思ったのではないだろうかと推測するのである。

「それから」は、夏目漱石さんの「三四郎」の“それから”であるとされる。著者もそのつもりで書いたといっているという話もインターネットで見たことがある。その後に発表された小説「門」と合わせて、夏目漱石さんの前期三部作と言われているらしい。

「三四郎」と「それから」は、ストーリー上の直接のつながりはないが、主人公が好きになった女性が、自分とは別の人と結婚してしまう「三四郎」、主人公が好きだったが別の人と結婚している女性との「それから」。続けて読んでしまうと、代助が三四郎に思えてくる。三四郎が結婚してしまった美禰󠄀子と再会してしまったらどうなっていただろうか?という気持ちで読んでみてしまった。ただし、三四郎は代助ほど理屈っぽくはないし、代助は三四郎と違ってよく喋る。

異なる小説の主人公同士を重ねて見えてしまったために、この小説でも、三千代がなんだかんだ最後の最後に、やっぱり私は平岡さんと一緒にいます。なんて言い出すことはないだろうかと、ひやひやしてしまった。

この小説の“それから”どうなったのかについては書かれていないので、推測の域を出ない。私は、すべての人間関係が崩れてしまったことから、今後の代助の人生はあまり満足のいくものにならないような気がした。何となくそう感じたので、それについて理由を述べることはできない。

しかし、読み終わった後に、学生の頃はあんなに嫌いだった読書感想文を、こうしてつたない文章ではあるが書いてみたくなったほど、この「それから」は、私の心を揺さぶった、そんな小説であったということは間違いないのである。

2022年9月21日水曜日

『三四郎』おもしろかった


夏目漱石さんの「三四郎」を令和4912日読み終えた。

 ここに、読み終えて思ったこと、思い出したことを記録していく。

 

最初にお断り申し上げるが、これからつづる文章は、私の主観的な記録であるということである。

読書感想文ではないし、考察もしない。そもそも本編のストーリーを読み違えている可能性もある。コメントを求められても、これは私の記録でありどうすることもできないことを予め覚えておいてほしい。

 

 この小説のあらすじは、地方から大学に通うために上京してきた男性が、大学生活を送りながら、大学で授業を受けたり、知り合った人と行動したり、感化されたりされなかったり、女性が気になってオロオロしたりする、と言ったところであろうか。


 私は、この小説の主人公である三四郎に共感できることが多少なりともある。なぜならば、私も地方の田舎から大学へ通うために一人暮らしを始めたことがあるからだ。新しい環境、新しい友達、学問を修めてやるという意気込み()、親に頼らない自立した生活()、などなど。

私にとって様々な新しい刺激が、大学生活にはあった。それを三四郎は思い出させてくれた。

 

そして、サークルで知り合ったあの子のこと、好きだったなーって思い出した。ほどなくして、その子は、別に交際している方がいると風の噂に聞いた。私も余つ程度胸がない方だったので、何もできなかったたが…。その後、私はサークルも辞めてしまったし。三四郎には、私の思い出さなくてもいい記憶まで思い出させてもらった。


あと、大学には、それまでの私の友達とは全然違う性格の人がいたことも思い出した。酒を飲んで大いに酔っ払って、そのまま屋上に上がって「我が国は…!」「我が国はー!!」等と我が国のあり方を大声で叫んだ人…。ゼミの教室で、部屋を真っ暗にした状態で、机の上に包丁を置いて、それをじっと見ていたという人…。酔っぱらって、駅の改札口でピンク色のゲロを吐いてうつむいていた人…。酔っぱらって、介抱した男友達の手を握り返し、カノジョの名前を連呼した人…。夜通し飲み続けて、みんなヘロヘロになった朝方に、突然「敦盛」を舞い始めた人…。

こんな人は、地元の友達にはいなかったので、初めはとても驚かされたものだ。しかし、付き合いが長くなるにつれて、その感覚が徐々に薄れていった。いつしかそれが当たり前になった。反対に、地元の友達と会うと、そちらの方に違和感を感じたときもあった。グループのノリが、そのグループによって違うことに改めて気づかされたものであった。


 大学生、大学生と言っているが、私も大学生であった時期もあった。私の過去には、申込書等の職業を書く欄の、大学生のところに○を付けられる時期があったのだ。そして本当に大学の敷地に、正式な身分で足を踏み入れていたのだ。大学生の中に混じって、大学生のように振る舞い、遊び、考えている雰囲気を出していた。

それが本当の意味での大学生であるべき姿であったのかどうかはわからない。

ハッキリと言い表せないのだが、私は時折、どこか宙に浮いたような感覚でフワフワとその場に溶け込めない時がある。溶け込めているのかもしれないが、それを本心から実感することができないのである。

大学生の時も、「ああ、僕は今大学生として大学に通っている。同じ学問を志す仲間たちに囲まれて、学問を修めて故郷に錦を飾らんと切磋琢磨しているのだ」と思えずに、大学生を演じている自分をちょっと離れた場所からそのストーリーを追ってしまっているときがあった。そして、その妙な感覚を、その瞬間も感じているし、あとから思い出してみても、その空間は客観的なものとして思い出されるのである。

 あとで、このブログに思い出せることは思い出して書いておこうと思う。話が脱線してしまったが、大学というものは私にとっても新鮮で刺激的な場所であった。

 

 もしも、主人公の名前が三四郎ではなく、たとえば「五二郎左衛門」とかだったら、この作品の評価はどうなっていたのだろう?と思う。どうでもいい話であるが。

読み進めるテンポが合わなくて大変なことになっていたのだろうか?

なぜ著者は主人公の名前を五二郎左衛門にしたのかを40文字以内で作者の気持ちを考えなければならなくなったのだろうか?

 

 あとは、作中の風景を、私の微かな明治時代末頃?の街並みのイメージでもって、登場人物たちと一緒の景色を見るのが楽しい。ちなみに、私のイメージする景色は、秋田県小坂町にある明治百年通りのそれである。あとは、教科書の挿絵にあったようなぼんやりとしたイメージで世界観を構築させてもらった。夏は今ほど熱くなかったのだろうか?エアコン無しでも乗り切れる夏だったのだろうか?でも虱がどうのこうのという話もあった?から、昔は昔で大変だったのだろうな。殺虫スプレーもあったのかな?蚊取り線香はありそう。

 

 話題が散らかってまとめられなくなってしまった。

 本来であれば、小説の本編が終わった後のページにある評論文のようなものも読んで、作品を振り返らなければならないのであろう。しかし、私は若いころに比べて集中力が続かなくなってしまったので、もはや評論に目を通す力がなくなってしまったことに気が付いてしまったのである。そのため、なんとなく本編を読み、おぼろげな記憶を頼りにこの文章を書いていることになる。

大変申し訳ございませんです。

 無理やりまとめると、三四郎に自分を投影して、大学生という肩書を持っていたころの私の思い出を重ね合わせて、懐かしがりながら読み進められた小説であった。そして、歴史ロマンを感じながら、当時の街を歩いた気持になった気がした小説であった。