2024年1月30日火曜日

『最後の喫煙者』を読みました


 筒井康隆さんの『最後の喫煙者』を読みました。『最後の喫煙者』は新潮文庫の自選ドタバタ傑作集です。

読もうと思ったきっかけは、以前(数十年前)、奇妙なドラマでこの表題作のドラマを見たことがあり、それの原作である小説があると最近知ったことで、読んでみたいと思ったわけであります。

表題作は、ストーリーもおぼろげながら覚えており、楽しめることが出来ました。

喫煙者が差別・弾圧されるパラレルワールドで、主人公が数少ない仲間とともに逃げながら抵抗するストーリーで、ついにその仲間も倒れ、主人公は最後の喫煙者となってしまう。といったストーリーでしょうか。

当時のドラマでは、その主人公が、喫煙者の最後の生き残りとなり、逆に保護されようとしていました。しかし、不慮の事故で命を落としてしまい、博物館に展示(剥製?蝋人形?)されてみんなの見世物になってしまうというエンディングになっていました。とても怖かったのを今でも覚えています。

このほかにも、この本には、スプラッター系の趣味を持つ医者のお話とか、老いたターザン、羽柴秀吉のif、のようなお話も収録されていました。

私は、収録されている全ての作品を読ませていただきましたが、全体的に好きなジャンルではないということがわかりました。

おそらく、私は根がまじめ(笑)な性格であるために、この小説の主人公たちの行動をどこかで許せない!と思いながら読んでしまったのではないかと思います。被害者がかわいそうだ、迷惑である、そう思いました。

そして、ひとによっては情景描写であったり、登場人物の心境などが丁寧な文章で表現されるべきところを、説明はしないなどどメタ的な一言で片づけられている場面もあり、小説を読むうえで楽しみにしている部分が根こそぎ削られてしまっていると思いました。この人の小説は、そういうものだと思って読まなければいけないのだとも思いました。

まとめとして、この本を読んで得たものは、私は、この不思議な世界観系のジャンルは苦手であるということでした。

2024年1月3日水曜日

太宰治さんの『人間失格』を読みました


 太宰治さんの『人間失格』を読みました。

人との付き合い方がよくわからない主人公が、お道化るなどして自分の本心を偽りながら生きていく姿が描かれています。太宰治さんの半生をもとにした、自伝的小説であると言われることもあります。

この主人公は、小学校?中学校?でわざとお道化た姿をクラスメイトに見破られて驚いたり、故郷の有力者だった父から物理的に精神的に逃れるために上京し、非合法活動に参加してみたり、知り合った女性と心中して女性は死に、自分だけ生き残って自暴自棄になってみたり、平穏な生活を送ろうと思っても、幸せにあと一歩のことろで手が届かず、薬物中毒になってみたり、最後は廃人のように空っぽになって生きる羽目になってしまいます。

私はふと、夏目漱石さんの『草枕』の冒頭の一文を思い出しました。

“智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。”

本編の主人公も、反論すれば面倒だからあえてそのまま相手の言い分を聞いてみたり、生きづらさを感じたりしながら肉体的に精神的に破滅の道を歩んで行ってしまいますね。

でも、実際私も普段は平静を装って生活していますけれど、生きづらいと思うときもありますよね。会話のキャッチボールがうまくいかくて、あとで反省することがなかった時があったであろうか疑問に思うくらいです。

反省して、改善して次に良い結果を出せるようにしなければいけないのですね。幸い私はお酒が全く飲めないので、酒におぼれることは考え難いですが、ヤケ食いする可能性は大いにあるので気を付けたいと思います。

この小説を読み終えると、いつも気分が落ち込んでしまいます。この主人公は、私よりも壊滅的な人生を送っていながら、その一方で人に甘える術を持っているので、うらやましいと思うところもあるからです。私の場合は、家で布団にくるまって、ただ新しい太陽が昇るのを待つことしかできません。

生きづらい性格ですが、前を向いて歩いていきたいと思います。

そう思いました。

2023年12月25日月曜日

FAXファクス


 昔はFAXで書類のやり取りしていましたが、今の時代は、

①メールで送られてきたPDFファイルを弊社で印刷して、

②それに署名捺印をして、

③それをスキャナーでスキャンして、

④出来上がったPDFファイルをメールに添付して返信

してくださいだそうな。

時代は変わりましたね😆

2023年ですもんね!

2023年9月16日土曜日

『ノルウェイの森』を読みました


 『ノルウェイの森』を読みました。

『ノルウェイの森』は村上春樹さんの1987年の長編小説だそうです。

あらすじは…、

「主人公のワタナベが、学生時代に出会った数多くの女性とのあんなことやこんなことを回想するお話…」

とても簡単にまとめてしまうと、こんな感じでしょうかね。。。

文書はとても読みやすく、登場人物がいる場所の風景もありありと具体的に想像でき、物語の世界に入っていくことができました。私が学生時代に入った大学の近くの洋食屋さんとか、地元の小さな書店とか、林間学校で宿泊した合宿所とか、ロールプレイングゲームに出てきた建物とかを想像し、自分の記憶と重ね合わせながら読みました。

それはよかったのですが、私にとってワタナベの思考回路が不思議でたまりませんでした。ワタナベの脳ミソがおち○ん○んに支配されているんじゃないかと疑ってしまいました。

ワタナベの前に新しい女性が登場するたびに、私は「やれやれ」と思ってしまいました。なぜならば、物語を読み進めていくと、ワタナベと出会った女性は結構な割合で「やれやれ」と思う展開に発展していったからです。この件については多くは語りますまい。

私がこの小説で気に入ったのは、緑という女性がワタナベに自分の理想を語るところですね。

緑は『苺のショート・ケーキ』を例に出してワタナベに説明をしますが、ワタナベは理解できないようでした。私は、このくだりを読んで、緑が何を言わんとしているのかがスッと入ってきました。

喩えるなら将棋でいうところの「三手の読み」のような、1.自分はこうする、2.相手はこうする、3.そうしたら自分はこうする、という理路整然とした説明が出来るようになりたいものです。

あと、ワタナベの上級生で永沢という男性が出てきます。永沢は頭がよくて(色々な)行動力がある人物として登場し、大学卒業後は外務省に就職して海外赴任もするような人物として描かれていました。

そんな永沢ですが、私は、この「永沢」という字面を見ると、どうしてもあの某国民的アニメの登場人物(タマネギ頭)が浮かんできてしまいます…。

永沢はワタナベに対して、人生において大切なことについてすごく立派なことを論理的に語るのですが、私の頭の中の映像には、永沢はどうしてもあのキャラクターが浮かんできてしまって…🧅。


私は、この小説を読みながら、この小説に登場してくるような人物と現実に会って交わるようなことは絶対ないだろうなと思いました。それは、私と彼らとでは、住んでいる世界も、思考も、情熱のようなものも違っているように思えたからです。実際にこの登場人物のような人がいるかはわかりませんが、いたとしても自分から話しかけることはないだろうし、向こうも私に話しかけることはないと思います。

身の丈に合った生き方をしたいものだと思いました。

2023年9月10日日曜日

『アルジャーノンに花束を』で読書感想文を書くには


『アルジャーノンに花束を』を読みました。

この本は、ダニエル・キイスさんの著した小説の日本語訳版です。

『32歳になっても幼児なみの知能しかないチャーリイ・ゴードン』は、大学の研究でネズミのアルジャーノンと、どちらが迷路を早く抜けるか競争をさせられていた。あるとき、チャーリイは、アルジャーノンが受けたのと同じ頭がよくなる脳の手術?注射?を受けたところ、みるみるうちに知能が向上し、その大学の先生よりも高い知能を得ることができ、理解できることが格段に多くなった。
しかし、知能は高くなったものの、現実はチャーリイの思うような理想的なものではなく、他人とすれ違い、孤独を感じたり、焦りや苛立ちを覚えたりする。
そうしているうちに、アルジャーノンには徐々に知能が退化していく様子が見られるようになり、チャーリイは、自分の行く末を案じるようになる。。。

本のオビには、「あなたに問いかける物語-頭が良いって幸せですか?-」と書かれていました。

『アルジャーノンに花束を』を読んでみて思ったことは、私がチャーリイ・ゴードンだったら、物語の後半部分でどのような行動をとっただろうか?ということです。
私はチャーリイと同じように、家族に会いに行っただろうか?チャーリイは、幼少のころから離れて暮らすことになるまで、母親からあのような接し方をされてきていました。それでも、チャーリイは彼自身にそう遠くない時期に訪れる現実を知ったとき、家族に会いに行きました。
私がチャーリイと同じ境遇になったら、もしかしたら、家族にも誰にも会いに行かずに、どこかでその時を待っているのかもしれません。
チャーリイが手術を受けて得たものは、知識を習得する知能だけではなく、人とのつながりだったのだろうと思いました。

という感じで、もう少し具体的に、言葉を選びながら、推敲しながら感想文を組み立てていきたいと思います。

他にはどのような感想文の展開があるだろうか?それについて少し考えてみたいと思いました。

第一は、前述の通り、チャーリイに主眼を置いて感想文を書くのが一番文書を組み立てやすいと思います。自分がチャーリイだったら、あの場面でどのように思い、行動しただろうか?とか。

キニアン先生は、本当のところチャーリイのことをどう思っていたかのか?この小説は、チャーリイの経過報告という日記のような文体で進められており、チャーリイが見たり感じたりしたキニアン先生の様子しか描写されていません。チャーリイのために献身的に接してくれていましたが、本当のところキニアン先生がどう思っていたのかは、読者の想像に委ねられているように思いました。

チャーリイの妹さんは、騒動の後でチャーリイと再会し、話をすることができました。妹さんとチャーリイとの関係性で感想文を考えてみてもいいかもしれないと思いました。

手術を行った大学の先生の視点で考えてみても面白いかもしれません。チャーリイにも、チャーリイの家族にも、手術(実験とも言える)のメリット・デメリットについて説明はしている様子でした。しかし、チャーリイとは手術の前後ともに同じ目線で会話ができる状態ではありませんでした。手術前は理解力が足りなかったし、チャーリイ自身も頭がよくなる手術を切望していました。手術後は、先生らはチャーリイをアルジャーノン同様実験台にしか思っておらず、人間として扱ってもらえていなかったと思っていたからです。

この本は、原文は英語で書かれているそうです。物語の序盤は、手術を受ける前のチャーリイが拙い分で経過報告(日記)を記述しています。日本語訳では、ひらがなを多用したり、句読点を打たなかったり、実在しない漢字を使うことでそれを表現されているようでした。原文で読むことが出来れば、その辺の文書や表現の対比も面白いものになるだろうと思います。この小説を原文で読めるようになるために、外国語を習得したいと決意することもまたいい心がけなのではないかと思います(^^)

あと、この小説には登場人物がたくさん出てくるので、感想文を書くとすると、今このセンテンスは誰について書いているのか、主語を明確に記述する必要があると、今まさにこのブログを書いていながら、私は思いました。

本来であれば、この小説をもっと時間をかけてじっくり読みこんでから、感想文を書くべきであると思います。しかし、私は飽きっぽい性格で、読んでる途中で疲れてきてしまい、勝手に「ここは重要でないかもしれない」と思った部分は流し読みしてしまいます。さらに、私の本棚にはまだ読んでいない本が「積読(つんどく)」状態にありますので、これを消化したい気持ちもあり、どうしても一冊あたりに掛けられる時間が限られて(実際は時間制限をかける必要は全くありませんが)しまっています。

そんなこんなで、『アルジャーノンに花束を』は読む人によって色々な考えをもたらす小説だったのではないかと思います。ちゃんちゃん。