夏目漱石さんの小説「門」を読みました。
門のあらすじは、Wikipediaによると、
“
宗助は、かつての親友である安井の妻である御米を得たが、その罪ゆえに、ひっそりと暮らさざるをえなかった。そのため弟小六に関する父の遺産についてもあまり関心を示さず、小六を引き取り共に暮らすことになる。しかし気苦労の多い弟との同居のためなどで、御米は寝込んでしまう。大事にはならなかったが、やがて安井の消息が届き、大家の坂井のもとを訪れることを聞く。宗助は救いを求めるために鎌倉へ向かい参禅したが、結局悟ることはできず帰宅する。
すでに安井は満州に戻り、小六は坂井の書生になることが決まっていた。御米は春が来たことを喜ぶが、宗助はじきに冬になると答える。
”
というものだそうです。
もちろん最後まで読みましたけど、あらすじをまとめるのがまだ不得意のため、引用させてもらいました。
この小説を読みながら思ったことは、あくまで個人的な意見ですが、少し消化不良な終わり方かな?と思いました。
それは、この「門」前に読んだ、同じく夏目漱石さんの「それから」が終盤で今までギリギリで保たれていた日常が崩壊してしまう様に心躍ったためだと思います。
「それから」のノリで「門」を読み進めていたので、この門をくぐり、出てきてから、この安井と何かしらのやりとりが始まるものと思っていましたが、結局、主人公と出会うことはなく(私の記憶違いでなかったら、この二人は会わなかったはず…)、淡々と御米との生活に戻っていく…。
なんか、期待していた気持ちが肩透かしを食らったようで、読み終わってモヤっとしてしまいました。
内容についてはそんなところですが、小説を書くということはさぞ大変だろうな、ということは改めて思いました。
詳説に出てくる場面において、季節はいつで、どのような建物で、だれがどこで何を…、といったことを、読者に飽きさせずになおかつ過不足なく言葉で描写をするという作業は、根気のいる作業であろうと思います。
五感で感じた外部からの刺激を、言葉に置き換えるというのは、才能というようなセンスのようなものがないとできないなーって思いました(小並感)。
とは言うものの、物語中盤の安井と会うことになるかもしれないとなったときの主人公の焦りのようなものは、私もドキドキしながら読み進めていました。
毎度毎度つたない文章で申し訳ございません。ご清聴ありがとうございました。
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