今しがた、夏目漱石さんの『硝子戸の中』を読み終わりました。
著者が体調不良で自宅?で療養しながら、今までの人生の記憶とか、幼少期の思い出とか、地元の風景とか、宅を訪ねてきた人とのやりとりとか、を比較的短い文章でまとめた(新聞に連載されていたそう)随筆に分類される書物だそうです。
一つ一つのお話が、興味を持って読めたり、字面を追うだけで何も読後の記憶がなかったりで、備忘録としてブログに書くにも記憶の掘り起こし作業が難しいです。
結局、あとがきの解説を読んで、硝子戸の中で自身の思い出を整理したことによって、生きる活力が生まれて、最後は硝子戸を開けることができた、みたいなことが書いてあって、それでようやく全体像をつかませてもらった感じです。
こういった文書を読むたびに、私は、自身の記憶を辿って、それを不特定多数の人に読んでもらえるように文書化する作業に憧れを抱きます。
これまで何十年と生きてきましたが、それこそボーっと生きてきましたので、学校の日記の宿題も苦手だったので、出来事を文書化する作業というものをほとんどしてきませんでした。
私はすぐに影響されるので、「私もエッセーを書いてみたい!」と思うことがあります。
しかし、文書化された人生の記憶のストックがないために、その取っ掛かりにすらつくことはできません。
できれば私も…
“あれは、○歳のときだった。その頃、この町には○○があって、友人の○○と学校が終わると、○○に○○しに行ったものだ。当時○○には兄がいて、彼の兄からも可愛がってもらった。「○○、あいつはうそをつくから信用しちゃだめだ」。うっかり、私は○○の言葉を信じて、○○してしまうところであった。してしまっていたら、怪我をしてしまっていたかもしれない。”
…などと、スラスラと書いてみたいものである。
話は戻りますが、『硝子戸の中』の中に、ほんの少しだけ、『吾輩は猫である』に関係ありそうな猫のお話が出たのが、点と点がつながったようなうれしさを覚えました。
まさしく自分の言動そのもののような、ふらふらとした感想文になってしまいました。
おしまい
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