2024年8月17日土曜日

『悲しくも笑える左利きの人々』という本を読みました。


 『悲しくも笑える左利きの人々』という本を読みました。

この本は、著者が、左利きの子どもが社会生活で感じるギャップに悩む親御さんからの相談を幾度か受けたことをきっかけに、そのギャップを少しでも埋めるため、左利きの社会生活上の不便を文章化したものだそうです。

私も左利きです。

数年前に自分の人生の折り返し地点をふと考えたときに、右利きとして残りの人生を歩むことが出来れば、少しは社会生活が楽になるのではないかと思い、書字は右手に変更しました(矯正ではない)。

そこから、気づいた時には左手で行っていることを右手に変更しようとしておりますが、なかなか多くのことを左手で行っていることに気づかされました。

たとえば、ドライヤー。左手で柄を持って、右手でコンセントを差し、左手を駆使して髪を乾かし、左手で所定の位置に戻していました。

これを右手で行うとさあ大変。無意識に行っていたドライヤーと頭部との距離感覚がリセットされてしまい、よく頭にドライヤーの先端がぶつかります。また、温風を届かせられない部位があって、つい左手に持ち替えて乾かしてしまいました。

左利きが身体に染みついていると改めて感じました。

人生で初めて左利きとして不便を感じたのは、学校の書写の授業でした。

そう、毛筆で字を書くあれです。

筆で書く字は、右利き用にできています。

まず、毛筆の先が左上を向くように紙に筆を下ろします。左手では、左肘関節が極まってしまいます。

また、多くの「ハネ」や「ハライ」は左方向に向きます。左手でそれを行うと、裏拳を打つような動作になります。「右ハライ」は、一旦筆の動きを止めてから払うようにできていますが、左手ではそのまま払い切りたくなります。

横棒は左から右へ。右利きは腕を引きますが、左利きは腕を向かわせるので窮屈です。

当時は、慣れない右手で書写を行いましたが、今思えば、半紙を右45°に傾けて書いてもよかったのかもしれないと思うこともあります。

そこから、長い長い受難の時間を過ごすことになります。

体育の授業でソフトボールを行うにも、当時の学校に左利き用グローブは無く。

駅の自動改札機では左手をぐーっと右側に伸ばして切符を挿入し。

缶切りは下手だと揶揄され。


その他にも、左利きとして不便を被っていたことがある、ということが、この本を読んでわかりました。

たとえば、算数のテスト。

用紙の左側に問題文があり、右側に解答欄があります。

右利きの人は、何不自由なく問題文を読み、解答欄に記入することが出来ていたんだそうです。

左利きの人は、解答中に問題文を読み返すときに、左腕が問題文を覆ってしまっていたので、その都度左腕を挙上して問題文を読まなければならなかったそうです。たしかに、言われてみればこのような動作をしていたと思い出されました。

他には、ハンコ。

ハンコの押印欄は、用紙の右側にあることが多いそうです。私は、ハンコを押すたびに、紙を右に90°転回していました。こうすことで、押印欄が左下に来るからです。しかし、右利きの人は、そんなひと手間をかけることなく押印していたとは…。

あと、お寿司も、右利きの人が取りやすい方向に傾けて配膳されているそうです。左利きの私は、まるで裏側から手を伸ばしているかのように箸を操り、箸先が右下を向くようにしてお寿司を取っていました。これも右利きの人であれば、箸の持ち方を大きく変えることなくお寿司を取れていたんですね…。

理想を言えば、どちらの利き手であっても、不便を強いられない社会構造、障害の除去が望ましいと思います。左と右とが手を取り合って、互いに協力し合える社会のなっていくことを所望します。

2024年1月30日火曜日

『最後の喫煙者』を読みました


 筒井康隆さんの『最後の喫煙者』を読みました。『最後の喫煙者』は新潮文庫の自選ドタバタ傑作集です。

読もうと思ったきっかけは、以前(数十年前)、奇妙なドラマでこの表題作のドラマを見たことがあり、それの原作である小説があると最近知ったことで、読んでみたいと思ったわけであります。

表題作は、ストーリーもおぼろげながら覚えており、楽しめることが出来ました。

喫煙者が差別・弾圧されるパラレルワールドで、主人公が数少ない仲間とともに逃げながら抵抗するストーリーで、ついにその仲間も倒れ、主人公は最後の喫煙者となってしまう。といったストーリーでしょうか。

当時のドラマでは、その主人公が、喫煙者の最後の生き残りとなり、逆に保護されようとしていました。しかし、不慮の事故で命を落としてしまい、博物館に展示(剥製?蝋人形?)されてみんなの見世物になってしまうというエンディングになっていました。とても怖かったのを今でも覚えています。

このほかにも、この本には、スプラッター系の趣味を持つ医者のお話とか、老いたターザン、羽柴秀吉のif、のようなお話も収録されていました。

私は、収録されている全ての作品を読ませていただきましたが、全体的に好きなジャンルではないということがわかりました。

おそらく、私は根がまじめ(笑)な性格であるために、この小説の主人公たちの行動をどこかで許せない!と思いながら読んでしまったのではないかと思います。被害者がかわいそうだ、迷惑である、そう思いました。

そして、ひとによっては情景描写であったり、登場人物の心境などが丁寧な文章で表現されるべきところを、説明はしないなどどメタ的な一言で片づけられている場面もあり、小説を読むうえで楽しみにしている部分が根こそぎ削られてしまっていると思いました。この人の小説は、そういうものだと思って読まなければいけないのだとも思いました。

まとめとして、この本を読んで得たものは、私は、この不思議な世界観系のジャンルは苦手であるということでした。

2024年1月3日水曜日

太宰治さんの『人間失格』を読みました


 太宰治さんの『人間失格』を読みました。

人との付き合い方がよくわからない主人公が、お道化るなどして自分の本心を偽りながら生きていく姿が描かれています。太宰治さんの半生をもとにした、自伝的小説であると言われることもあります。

この主人公は、小学校?中学校?でわざとお道化た姿をクラスメイトに見破られて驚いたり、故郷の有力者だった父から物理的に精神的に逃れるために上京し、非合法活動に参加してみたり、知り合った女性と心中して女性は死に、自分だけ生き残って自暴自棄になってみたり、平穏な生活を送ろうと思っても、幸せにあと一歩のことろで手が届かず、薬物中毒になってみたり、最後は廃人のように空っぽになって生きる羽目になってしまいます。

私はふと、夏目漱石さんの『草枕』の冒頭の一文を思い出しました。

“智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。”

本編の主人公も、反論すれば面倒だからあえてそのまま相手の言い分を聞いてみたり、生きづらさを感じたりしながら肉体的に精神的に破滅の道を歩んで行ってしまいますね。

でも、実際私も普段は平静を装って生活していますけれど、生きづらいと思うときもありますよね。会話のキャッチボールがうまくいかくて、あとで反省することがなかった時があったであろうか疑問に思うくらいです。

反省して、改善して次に良い結果を出せるようにしなければいけないのですね。幸い私はお酒が全く飲めないので、酒におぼれることは考え難いですが、ヤケ食いする可能性は大いにあるので気を付けたいと思います。

この小説を読み終えると、いつも気分が落ち込んでしまいます。この主人公は、私よりも壊滅的な人生を送っていながら、その一方で人に甘える術を持っているので、うらやましいと思うところもあるからです。私の場合は、家で布団にくるまって、ただ新しい太陽が昇るのを待つことしかできません。

生きづらい性格ですが、前を向いて歩いていきたいと思います。

そう思いました。

2023年12月25日月曜日

FAXファクス


 昔はFAXで書類のやり取りしていましたが、今の時代は、

①メールで送られてきたPDFファイルを弊社で印刷して、

②それに署名捺印をして、

③それをスキャナーでスキャンして、

④出来上がったPDFファイルをメールに添付して返信

してくださいだそうな。

時代は変わりましたね😆

2023年ですもんね!

2023年9月16日土曜日

『ノルウェイの森』を読みました


 『ノルウェイの森』を読みました。

『ノルウェイの森』は村上春樹さんの1987年の長編小説だそうです。

あらすじは…、

「主人公のワタナベが、学生時代に出会った数多くの女性とのあんなことやこんなことを回想するお話…」

とても簡単にまとめてしまうと、こんな感じでしょうかね。。。

文書はとても読みやすく、登場人物がいる場所の風景もありありと具体的に想像でき、物語の世界に入っていくことができました。私が学生時代に入った大学の近くの洋食屋さんとか、地元の小さな書店とか、林間学校で宿泊した合宿所とか、ロールプレイングゲームに出てきた建物とかを想像し、自分の記憶と重ね合わせながら読みました。

それはよかったのですが、私にとってワタナベの思考回路が不思議でたまりませんでした。ワタナベの脳ミソがおち○ん○んに支配されているんじゃないかと疑ってしまいました。

ワタナベの前に新しい女性が登場するたびに、私は「やれやれ」と思ってしまいました。なぜならば、物語を読み進めていくと、ワタナベと出会った女性は結構な割合で「やれやれ」と思う展開に発展していったからです。この件については多くは語りますまい。

私がこの小説で気に入ったのは、緑という女性がワタナベに自分の理想を語るところですね。

緑は『苺のショート・ケーキ』を例に出してワタナベに説明をしますが、ワタナベは理解できないようでした。私は、このくだりを読んで、緑が何を言わんとしているのかがスッと入ってきました。

喩えるなら将棋でいうところの「三手の読み」のような、1.自分はこうする、2.相手はこうする、3.そうしたら自分はこうする、という理路整然とした説明が出来るようになりたいものです。

あと、ワタナベの上級生で永沢という男性が出てきます。永沢は頭がよくて(色々な)行動力がある人物として登場し、大学卒業後は外務省に就職して海外赴任もするような人物として描かれていました。

そんな永沢ですが、私は、この「永沢」という字面を見ると、どうしてもあの某国民的アニメの登場人物(タマネギ頭)が浮かんできてしまいます…。

永沢はワタナベに対して、人生において大切なことについてすごく立派なことを論理的に語るのですが、私の頭の中の映像には、永沢はどうしてもあのキャラクターが浮かんできてしまって…🧅。


私は、この小説を読みながら、この小説に登場してくるような人物と現実に会って交わるようなことは絶対ないだろうなと思いました。それは、私と彼らとでは、住んでいる世界も、思考も、情熱のようなものも違っているように思えたからです。実際にこの登場人物のような人がいるかはわかりませんが、いたとしても自分から話しかけることはないだろうし、向こうも私に話しかけることはないと思います。

身の丈に合った生き方をしたいものだと思いました。