2022年10月23日日曜日

『それから』おもしろかった


 夏目漱石さんの小説「それから」を読んだ。「それから」は、1909年に新聞に連載された小説だそうである。

 あらすじは、親のすねをかじりながら、親元を離れて親の仕送りで生活している無職の代助が主人公のお話。ある日、昔からの友人平岡と、その妻で死んだ共通の友人の妹である三千代と再会した。代助は三千代へのかつての恋心が再燃してしまう。一方で、親からはお見合いの話が来て、兄や嫂も結婚するよう代助に勧める。代助は、自分が納得しないことはしない主義で、結婚もしたいと思っていないからしないとか言って家族を困らせている。そして、代助は、平岡のいない隙を狙って三千代と会い始める。とうとう代助は三千代に自分の思いを告白することを決意するが…。

 というイメージで読んでいた。

 私は、この「それから」を読み終わったときに、まるで一本の映画を見終わったような、ドラマティックな展開にしばし呆然としてしまった。(映画を見終わったような感覚は、小説だから当然ではあろうが、この小説は特に久しぶりに心を揺さぶられた展開であった。)そして、本の表紙を見ながら、さながら映画のエンドロールを見ているがごとく、小説の余韻に浸っていた。

 うまく表現することができないが、代助は、自分のために行動を起こして、それは自分なりに運命の歯車のようなものを回し始めていき、あと少しのところで歯車がかみ合って運命が動き出すはずだったのだ。しかし、運命は残酷なもので、そのために犠牲にしてきた家族や友人との関係が崩れ去ってしまったのであった。

私は、代助は家が苦手だったのかもしれないと思った。ここでいう家というのは、建物のそれではなく、家族等の共同体のことである。だから、仕事が多忙なためにもともと会えない父に会う機会を更に少なくし、父が持ってきたお見合い話も断り続けていた。その一方で、無職で無収入だった代助は父を当てにすることしかできなかったため、その相反する現状に折り合いをつけるために、家を離れて暮らしていたのでしょう。

家を離れると、自立した生計がなっていなくても、所謂大人になったと勘違いしてしまい、言動も身の丈に合っていない、父からすると何を言っているんだ?と思われるようなことになってしまったのだと思う。それは、私が大学生の時に、家を離れて一人暮らしをしていたときに、そのように大人になったつもりになったと勘違いしたことから、代助もそう思ったのではないだろうかと推測するのである。

「それから」は、夏目漱石さんの「三四郎」の“それから”であるとされる。著者もそのつもりで書いたといっているという話もインターネットで見たことがある。その後に発表された小説「門」と合わせて、夏目漱石さんの前期三部作と言われているらしい。

「三四郎」と「それから」は、ストーリー上の直接のつながりはないが、主人公が好きになった女性が、自分とは別の人と結婚してしまう「三四郎」、主人公が好きだったが別の人と結婚している女性との「それから」。続けて読んでしまうと、代助が三四郎に思えてくる。三四郎が結婚してしまった美禰󠄀子と再会してしまったらどうなっていただろうか?という気持ちで読んでみてしまった。ただし、三四郎は代助ほど理屈っぽくはないし、代助は三四郎と違ってよく喋る。

異なる小説の主人公同士を重ねて見えてしまったために、この小説でも、三千代がなんだかんだ最後の最後に、やっぱり私は平岡さんと一緒にいます。なんて言い出すことはないだろうかと、ひやひやしてしまった。

この小説の“それから”どうなったのかについては書かれていないので、推測の域を出ない。私は、すべての人間関係が崩れてしまったことから、今後の代助の人生はあまり満足のいくものにならないような気がした。何となくそう感じたので、それについて理由を述べることはできない。

しかし、読み終わった後に、学生の頃はあんなに嫌いだった読書感想文を、こうしてつたない文章ではあるが書いてみたくなったほど、この「それから」は、私の心を揺さぶった、そんな小説であったということは間違いないのである。

2022年9月21日水曜日

『三四郎』おもしろかった


夏目漱石さんの「三四郎」を令和4912日読み終えた。

 ここに、読み終えて思ったこと、思い出したことを記録していく。

 

最初にお断り申し上げるが、これからつづる文章は、私の主観的な記録であるということである。

読書感想文ではないし、考察もしない。そもそも本編のストーリーを読み違えている可能性もある。コメントを求められても、これは私の記録でありどうすることもできないことを予め覚えておいてほしい。

 

 この小説のあらすじは、地方から大学に通うために上京してきた男性が、大学生活を送りながら、大学で授業を受けたり、知り合った人と行動したり、感化されたりされなかったり、女性が気になってオロオロしたりする、と言ったところであろうか。


 私は、この小説の主人公である三四郎に共感できることが多少なりともある。なぜならば、私も地方の田舎から大学へ通うために一人暮らしを始めたことがあるからだ。新しい環境、新しい友達、学問を修めてやるという意気込み()、親に頼らない自立した生活()、などなど。

私にとって様々な新しい刺激が、大学生活にはあった。それを三四郎は思い出させてくれた。

 

そして、サークルで知り合ったあの子のこと、好きだったなーって思い出した。ほどなくして、その子は、別に交際している方がいると風の噂に聞いた。私も余つ程度胸がない方だったので、何もできなかったたが…。その後、私はサークルも辞めてしまったし。三四郎には、私の思い出さなくてもいい記憶まで思い出させてもらった。


あと、大学には、それまでの私の友達とは全然違う性格の人がいたことも思い出した。酒を飲んで大いに酔っ払って、そのまま屋上に上がって「我が国は…!」「我が国はー!!」等と我が国のあり方を大声で叫んだ人…。ゼミの教室で、部屋を真っ暗にした状態で、机の上に包丁を置いて、それをじっと見ていたという人…。酔っぱらって、駅の改札口でピンク色のゲロを吐いてうつむいていた人…。酔っぱらって、介抱した男友達の手を握り返し、カノジョの名前を連呼した人…。夜通し飲み続けて、みんなヘロヘロになった朝方に、突然「敦盛」を舞い始めた人…。

こんな人は、地元の友達にはいなかったので、初めはとても驚かされたものだ。しかし、付き合いが長くなるにつれて、その感覚が徐々に薄れていった。いつしかそれが当たり前になった。反対に、地元の友達と会うと、そちらの方に違和感を感じたときもあった。グループのノリが、そのグループによって違うことに改めて気づかされたものであった。


 大学生、大学生と言っているが、私も大学生であった時期もあった。私の過去には、申込書等の職業を書く欄の、大学生のところに○を付けられる時期があったのだ。そして本当に大学の敷地に、正式な身分で足を踏み入れていたのだ。大学生の中に混じって、大学生のように振る舞い、遊び、考えている雰囲気を出していた。

それが本当の意味での大学生であるべき姿であったのかどうかはわからない。

ハッキリと言い表せないのだが、私は時折、どこか宙に浮いたような感覚でフワフワとその場に溶け込めない時がある。溶け込めているのかもしれないが、それを本心から実感することができないのである。

大学生の時も、「ああ、僕は今大学生として大学に通っている。同じ学問を志す仲間たちに囲まれて、学問を修めて故郷に錦を飾らんと切磋琢磨しているのだ」と思えずに、大学生を演じている自分をちょっと離れた場所からそのストーリーを追ってしまっているときがあった。そして、その妙な感覚を、その瞬間も感じているし、あとから思い出してみても、その空間は客観的なものとして思い出されるのである。

 あとで、このブログに思い出せることは思い出して書いておこうと思う。話が脱線してしまったが、大学というものは私にとっても新鮮で刺激的な場所であった。

 

 もしも、主人公の名前が三四郎ではなく、たとえば「五二郎左衛門」とかだったら、この作品の評価はどうなっていたのだろう?と思う。どうでもいい話であるが。

読み進めるテンポが合わなくて大変なことになっていたのだろうか?

なぜ著者は主人公の名前を五二郎左衛門にしたのかを40文字以内で作者の気持ちを考えなければならなくなったのだろうか?

 

 あとは、作中の風景を、私の微かな明治時代末頃?の街並みのイメージでもって、登場人物たちと一緒の景色を見るのが楽しい。ちなみに、私のイメージする景色は、秋田県小坂町にある明治百年通りのそれである。あとは、教科書の挿絵にあったようなぼんやりとしたイメージで世界観を構築させてもらった。夏は今ほど熱くなかったのだろうか?エアコン無しでも乗り切れる夏だったのだろうか?でも虱がどうのこうのという話もあった?から、昔は昔で大変だったのだろうな。殺虫スプレーもあったのかな?蚊取り線香はありそう。

 

 話題が散らかってまとめられなくなってしまった。

 本来であれば、小説の本編が終わった後のページにある評論文のようなものも読んで、作品を振り返らなければならないのであろう。しかし、私は若いころに比べて集中力が続かなくなってしまったので、もはや評論に目を通す力がなくなってしまったことに気が付いてしまったのである。そのため、なんとなく本編を読み、おぼろげな記憶を頼りにこの文章を書いていることになる。

大変申し訳ございませんです。

 無理やりまとめると、三四郎に自分を投影して、大学生という肩書を持っていたころの私の思い出を重ね合わせて、懐かしがりながら読み進められた小説であった。そして、歴史ロマンを感じながら、当時の街を歩いた気持になった気がした小説であった。

2022年9月5日月曜日

朝ごはん

 私の朝ごはんとお昼ごはんのメインはだいたい決まっている。

朝は、納豆ごはん。

お昼は、ふりかけ梅干しごはん。

ごはんを1/2合だけ炊いて、幼児向けのキャラクターが描かれた小さなお弁当箱にごはんを敷き詰めて、残りを納豆とともに食べる。

自分で言うのもなんだが、とてもシンプルなお弁当だ。

お弁当を作り始めたころは、もう少し頑張っていた。

玉子焼きを焼いたり…

ウィンナーを焼いたり…

チャーハンにしてみたり…

徐々に調理が面倒くさくなって、現在に至っている。

お弁当箱に1/2合のごはんを敷き詰めると、残りはおにぎりにもならない、お寿司のシャリくらいのごはんが残る。

これに納豆をかけて食べるのだ。

もはや、納豆とごはんがほぼほぼ同量である。どちらが主食でどちらがおかずなのかわからなくなることがある。

毎日のルーティーンになると、何も考えなくても手が動くようになることがある。そして無心で納豆ごはんを食べる。さらに慣れてくると、ごはんを食べながら今日の仕事のタスクを整理する。

タスクに気を取られすぎると、納豆をこぼしてしまうので気を付けなければならない。

2022年9月4日日曜日

本を読み始めた

最近になって、本を読み始めた。

理由は、休日の時間をとてもとても持て余すようになったからだ。

今年の2月に、とある資格試験を受験し、3月に合格したことが分かった。

資格試験のために、2年前から勉強を始め、試験2か月前からは本当に久しぶりに、それは大学受験の時以来くらいぶりに勉強をした。

あのころと違ったのは、学生時代は勉強が仕事であったのに対して、社会人となった今は仕事と別に勉強をしなければならなかったことだ。

仕事といってもそれほど大変な仕事ではなく、残業もほぼなかったので、その点では勉強する時間を確保できてよかったと思う。

そんな、仕事以外の時間は勉強三昧だった日々が終わり、私は当面すべきことがなくなってしまったのである。

趣味が無いわけではないが(ダム巡り、カメラ、ギター等ある)、家で簡単にできる趣味として、本を読むことにしたのである。

高校生、大学生の頃はよく読んでいたが、最近は(資格試験を除く)本を読まなくなっていた。

久しぶりに本を読んでみると、知らなかった考えを吸収することができてとても気分がいい。

これからどんどん本を読んでいこうと思う。

2021年10月1日金曜日

カメラがほしいなぁ


私はあるカメラを使い続けることができず、ある程度使ってしまうと、新しいカメラがほしくなってしまいます。


私が現在使っているカメラは、キヤノンのG7XmarkIIIという機種で、このカメラにおおむね満足はしています。


キレイに写るし、一眼カメラに比べると小さくて軽量だし、です。


不満があるとすると、望遠端が35mm換算で光学100mm相当までしかズームができないことです。デジタルズームを使えばもう少し望遠側の焦点距離が伸びますが、やや画質が悪くなってしまいます。あくまでも「やや」という程度ですが。


私がほしいカメラは、コンパクトデジカメであって、「小さい・軽い」「光学ズーム倍率が高い」「明るい」という条件が多くそろっているものですかね。この3つの条件すべてそろったカメラって見つけられないです。あったらほしいですね。