2023年9月10日日曜日

『アルジャーノンに花束を』で読書感想文を書くには


『アルジャーノンに花束を』を読みました。

この本は、ダニエル・キイスさんの著した小説の日本語訳版です。

『32歳になっても幼児なみの知能しかないチャーリイ・ゴードン』は、大学の研究でネズミのアルジャーノンと、どちらが迷路を早く抜けるか競争をさせられていた。あるとき、チャーリイは、アルジャーノンが受けたのと同じ頭がよくなる脳の手術?注射?を受けたところ、みるみるうちに知能が向上し、その大学の先生よりも高い知能を得ることができ、理解できることが格段に多くなった。
しかし、知能は高くなったものの、現実はチャーリイの思うような理想的なものではなく、他人とすれ違い、孤独を感じたり、焦りや苛立ちを覚えたりする。
そうしているうちに、アルジャーノンには徐々に知能が退化していく様子が見られるようになり、チャーリイは、自分の行く末を案じるようになる。。。

本のオビには、「あなたに問いかける物語-頭が良いって幸せですか?-」と書かれていました。

『アルジャーノンに花束を』を読んでみて思ったことは、私がチャーリイ・ゴードンだったら、物語の後半部分でどのような行動をとっただろうか?ということです。
私はチャーリイと同じように、家族に会いに行っただろうか?チャーリイは、幼少のころから離れて暮らすことになるまで、母親からあのような接し方をされてきていました。それでも、チャーリイは彼自身にそう遠くない時期に訪れる現実を知ったとき、家族に会いに行きました。
私がチャーリイと同じ境遇になったら、もしかしたら、家族にも誰にも会いに行かずに、どこかでその時を待っているのかもしれません。
チャーリイが手術を受けて得たものは、知識を習得する知能だけではなく、人とのつながりだったのだろうと思いました。

という感じで、もう少し具体的に、言葉を選びながら、推敲しながら感想文を組み立てていきたいと思います。

他にはどのような感想文の展開があるだろうか?それについて少し考えてみたいと思いました。

第一は、前述の通り、チャーリイに主眼を置いて感想文を書くのが一番文書を組み立てやすいと思います。自分がチャーリイだったら、あの場面でどのように思い、行動しただろうか?とか。

キニアン先生は、本当のところチャーリイのことをどう思っていたかのか?この小説は、チャーリイの経過報告という日記のような文体で進められており、チャーリイが見たり感じたりしたキニアン先生の様子しか描写されていません。チャーリイのために献身的に接してくれていましたが、本当のところキニアン先生がどう思っていたのかは、読者の想像に委ねられているように思いました。

チャーリイの妹さんは、騒動の後でチャーリイと再会し、話をすることができました。妹さんとチャーリイとの関係性で感想文を考えてみてもいいかもしれないと思いました。

手術を行った大学の先生の視点で考えてみても面白いかもしれません。チャーリイにも、チャーリイの家族にも、手術(実験とも言える)のメリット・デメリットについて説明はしている様子でした。しかし、チャーリイとは手術の前後ともに同じ目線で会話ができる状態ではありませんでした。手術前は理解力が足りなかったし、チャーリイ自身も頭がよくなる手術を切望していました。手術後は、先生らはチャーリイをアルジャーノン同様実験台にしか思っておらず、人間として扱ってもらえていなかったと思っていたからです。

この本は、原文は英語で書かれているそうです。物語の序盤は、手術を受ける前のチャーリイが拙い分で経過報告(日記)を記述しています。日本語訳では、ひらがなを多用したり、句読点を打たなかったり、実在しない漢字を使うことでそれを表現されているようでした。原文で読むことが出来れば、その辺の文書や表現の対比も面白いものになるだろうと思います。この小説を原文で読めるようになるために、外国語を習得したいと決意することもまたいい心がけなのではないかと思います(^^)

あと、この小説には登場人物がたくさん出てくるので、感想文を書くとすると、今このセンテンスは誰について書いているのか、主語を明確に記述する必要があると、今まさにこのブログを書いていながら、私は思いました。

本来であれば、この小説をもっと時間をかけてじっくり読みこんでから、感想文を書くべきであると思います。しかし、私は飽きっぽい性格で、読んでる途中で疲れてきてしまい、勝手に「ここは重要でないかもしれない」と思った部分は流し読みしてしまいます。さらに、私の本棚にはまだ読んでいない本が「積読(つんどく)」状態にありますので、これを消化したい気持ちもあり、どうしても一冊あたりに掛けられる時間が限られて(実際は時間制限をかける必要は全くありませんが)しまっています。

そんなこんなで、『アルジャーノンに花束を』は読む人によって色々な考えをもたらす小説だったのではないかと思います。ちゃんちゃん。

2023年8月21日月曜日

『だれでも書ける最高の読書感想文』という本を買いました


齋藤孝さんの『 だれでも書ける最高の読書感想文』を買いました。

まだ読んでいないので、これから読みます(笑)。

私がこの本を読もうと思った理由は、まともな読書感想文を書いてみたいので、そのための方法について知りたいと思ったからです。

改めて思い出してみると、私の読書感想文の思い出にはろくなものがありませんでした。

読書感想文には、学生時代ずっと悩まされ続けてきました。悩みは、(本を)読めない(感想文を)書けない(図書を)探せない、の三重苦でした。

読書感想文という文字を見ると、必ず小学校のあたりの頃の記憶がよみがえります。

学校の先生は、揃ってこう言いました。

「自分の好きな本を読んで、その感想を自由に書いてください。書き方に決まりはありません。」

私は、自由に書くということがとても苦手でした。今も苦手ではあります。読書感想文を書けと言われても、何をどのように書いていいのかわからないし、本を読んでも、「へぇ、そうなんだ」で終わってしまい、感想を持つということがなかったことも原因だと思います。

参考にさせていただけるような読書感想文の見本を読んでみたかったのですが、先生は誰もそれを見せてはくれませんでした。自由だから、誰かの感想文を参考にしてはいけないという理由だったと記憶しています。

さらに思い返してみると、長期休業中の宿題は、「夏休みの友」と「自由研究・工作」と「読書感想文」だったような気がしますが、読書感想文は一度も提出した覚えがありません。小学生時代に、活字の本を読んだ記憶が全くありませんから。

たぶん、登校日まで間に合わなかったことにして、そのまま知らんふりをして時間が過ぎるのを待っていたのだと思います。読書感想文の提出が忘れられる日まで。

。。

。。。

…あれから数十年。

今、私は、過去に成し遂げられなかった苦い思い出を打ち破るために、個人的に小さな小さなアクションを起こしていきたいと思っています。

途中で挫折した本を最後まで読み切れるようになったり、他にはあれだったりこれだったり…。

その中の一つに、読書感想文を書きあげてみたいという目標があります。

誰に見せるわけでもありませんが、その本を読んだ証拠として、しっかり読んだ人でないと書けないような内容についての言及であったり、それについての考察であったり、感想であったりを、理路整然かつ淡々と言葉を紡いで、読書感想文にしてみたいです。それが出来るようになったところで、何かが自分の人生が変わるようなこともないと思いますが、過去の悔しい思い出にひとつケジメをつけられるのであれば、それはそれでいいのだと思います。

さて、そこで最初の本に戻ります。

この本をパラパラとめくってみた程度での印象では、読書感想文を書くための、本の選び方や、読書に対する姿勢(能動的にではなく主体的にとりかかる)、文書作成のための具体的な方法(印象に残った箇所をメモる、とか)、自分だけの感想文にするためのテクニック、感想文を書くための本の紹介、について、平易なわかりやすい文章で書かれています。

著者の読書感想文は掲載されていませんが、何かのコンクールの出された感想文は載っていました。

その感想文を読んでみましたが、感想文の文字一字一句がキラキラ輝いていて、私は直視することができませんでした。むしろ、逆の意味で目を逸らしたくなるような文章でした。とてもピュアで純粋な心で図書に向き合っていて、登場人物に寄り添っていて、鬱蒼とした深い森の奥に清く澄んだ湖を見たような、そんな感想文でした。

これが読書感想文というものか、と、“本物”の実力を見せつけられたような思いがしました。

この本に小学生の頃に出会っていれば、読書感想文はもっと簡単に書けるようになっていたのかもしれないと思いました。学校の先生も、ノーヒントではなく、例えばの話しとして、この本に書かれているようなテクニックについて教えてくれれば、私のような感想文落第生は少なくなるのに…と思いました。

私は、この本に書かれているテクニックを身につけて、本を読んで、感想文を書けるようになれば、私自身が少し成長できたと感じることができるのではないかと期待しています。そのためには、この本をいち早く読み始めなければなりません。

そう思いつつ、私は今日もまた、YouTubeアプリを立ち上げるのでありました…。

2023年8月20日日曜日

午後12時は何時を指すのか?


 午後12時はお昼ちょうどなのか?夜中の日付が変わる頃なのか?

わからなくなることが私はあります。

前々からわからないでいましたところへ、ある書類を見ていたら「午後12時35分」という表現があり、いったいこれはお昼の出来事なのか、夜中の出来事なのか判断に迷ったため、ますますわからなくなってしまいました。


ここで、少し自分の認識を整理してみることにしました。

以下、私見を書き連ねていきます。


「午前8時」は朝8時。これは、おそらく多くの方が同様に思われるのではないかと思います。

したがって、「午前0時」ははその8時間前になりますので、私は夜中のことだと思います。

すると「午後0時」は、「午前0時」はその12時間後に当たるので、お昼ということになるのだと思います。しかし、本当は、お昼ちょうどを表す場合は、「正午」という表現が一番間違いないのではないかと思います。

この立場に立ってさらに考えると、「午後1時」は、24時間表記にすると、正午から1時間後に当たるので13時になりますね。

「午後11時」は23時になります。

「午後11時59分」は、23時59分です。

「午前11時59分」は、そのまま11時59分ですね。


では、「午前14時」は?

これは、「午前11時59分」の2時間と1分後なので、24時間表記にするとそのまま14時になりますかね??私は、この表現には、言葉に表しがたい違和感を覚えます。


私は、「午前14時」という時間の表現は、おそらく誤解を招く恐れがある(私は誤解する)ため、適切な表現ではないものと思われます。それは、午前と午後は、時間を12時間表記するためにある言葉であり、12時以降の時間を当てはめるべきではないものと考えているからです。

仮に「午前14時」が適切な表現でないとしたら、「午前12時59分」は適切な表現に当たるのでしょうか?

先ほどの(屁)理屈でいくとすると、「午前12時59分」は、「午前14時」の1時間と1分前なので、24時間表記にすると12時59分となります。

「午前12時59分」が12時59分ということになると、「午後12時59分」はその12時間後なので00時59分ということになり??となると「午後0時」は00時になります??

先ほど「午後0時」はお昼の12時としていたので、頭の中で矛盾が生じてしまいました。


自分で文章を書いているうちに訳が分からなくなってしまったので、私は、12時間表記で午前・午後とを使うときは、混乱を防ぐために11時59分までにして、その1分後は、00時と表現したいと思います。むしろ、すべて24時間表記にしたいと思うくらいであります。

したがって、午後12時35分という表記方法はやめたいと思いますし、できれば已めて頂戴!って感じです。

送り手と受け手で解釈が異なると、それがきっかけでトラブルが生じてしまうことはあり、できることであれば、複数の解釈が出来る表現は避けるべきだと思います。私は、この時間表記の件についてあれこれ考えながら、まずは自分の表現から気を付けて文章を考えていかなければならないと改めて思った次第でございます。

2023年8月12日土曜日

成瀬ダムを見に行ってきました(12回目)

成瀬ダムの建設が進んでいますね😄

こちらが、令和4年10月ころに見に行った時のもの。



 こちらが、令和5年8月ころに見に行った時のもの。

成瀬ダムは、秋田県雄勝郡東成瀬村に建設中のダムです。ダムの堤高は114.5m、堤頂長は755mになる予定です。

ダム形式は、砂礫をセメントで固めたものを表面をコンクリートで保護する台形CSGダムというもので建設されています。工期と工費が抑えられるのだとか。

工事現場の展望台からは、ダム建設の様子を遠くから見ることができます。

近くで見るととても大きい55tダンプトラックも、展望台から見ると米粒豆粒のように小さく見えます。


ダムを見に行くたびに、桁違いのスケールの大きさに驚かされるばかりです。

2023年8月9日水曜日

『なぜ僕らは働くのか』を読みました


池上彰さん監修の『なぜ僕らは働くのか』を読みました。

この本は、学校になじめなかった主人公の少年が、大人や同級生との交流を通して、自分の将来について考える漫画ページと、それを補完するような形で、世の中の仕事はどうなっているのか、自分の将来の仕事を見つけるにはどうするのか、等を例を挙げながら解説するテキストページとが、各章毎に交互にでてきます。

この本は、私にとってとても耳に痛いものとなりました。

私は、学生時代は、親や先生に怒られないように、かつ、必要最低限のエネルギーで生きるために、将来のことを特に考えずに、勉強だけを頑張って年を重ねてきました。将来なりたい職業は、親や先生に怒られないように、「学校の先生」や「公務員」なんて書いていました。先生にもいろいろ種類があるし、公務員の職務内容もいろいろあるのに、そのことについて深く考えることはありませんでした。

大学生になり、大学生活も後半に差し掛かると、周りの友人らは就職活動を始めていました。私は、なりたい職業がなかったうえに、調べようともしなかったので、とても苦労しました。その苦労は今も続いています。。。

この本では、学生のうちから、「世の中の仕組み・仕事を知ること」「自分が幸せになる方法」「小さなことから行動すること」が、これからの人生を生きていくうえで重要であると書かれています。

おまけに、「勉強していれば、仕事が与えられるわけではない」とハッキリ書かれています。

私のこれまでの人生が、いかに消極的であったかを、改めて思い知らされてしまい、しょぼーんとしてしまいました

(´・ω・`)ショボーン

しかし、私は、この本から希望も与えられました。

それは、いつ始めても遅くはないということです。

今からでも、これからについて考えて、アンテナを張っておくことで、人生をよりよくするためのヒントがある日突然見つけられるかもしれない的なことも書かれていました。

私は、今漸く、この本にとっての“スタートライン”に立ったような、いや、スタートラインがあることを教えられたような気持になりました。

私は、ただ時間の流れに任せて年齢だけを重ねているという不安を感じながら生きてきました。先が見えない、未来が深い霧に包まれてどうしようもない感覚を抱いていました。それが、今、この本を読んで、少し変わったような気がするのです。

未来が見えないのは相変わらずではありますが、見えないなりに歩みを進める方法がある。ということを知れたことが、私にとっての最大の収穫になったような気がしました。歩き始める方法があると分かったので、これからは、その方法が、いったいどのようなもので、どうすればそれを自分が取得できるのか、取得したらその先に何かが見えてくるのか。千里の道を歩き始める一歩を踏み出すスタートラインが見えてきたのであります。

ブルーハーツさんとか、吉田拓郎さんとかの曲を聴いて、歌詞を口ずさんで、ずっと昔から教えられてきていたと思いますが、改めて、自分の将来を決めるのは自分なんだということを痛感しましたね。このお話もいつか書きたいと思います。

自分の残りの人生があと何百年あるのかはわかりませんが、過度にあきらめたり、いじけたりせずに、世の中に飛び交っている情報にアンテナを張って、「楽しい人生であった」と口元に笑みを浮かべながら臨終を迎えられるように生きていきたいと思いました。