2023年9月16日土曜日

『ノルウェイの森』を読みました


 『ノルウェイの森』を読みました。

『ノルウェイの森』は村上春樹さんの1987年の長編小説だそうです。

あらすじは…、

「主人公のワタナベが、学生時代に出会った数多くの女性とのあんなことやこんなことを回想するお話…」

とても簡単にまとめてしまうと、こんな感じでしょうかね。。。

文書はとても読みやすく、登場人物がいる場所の風景もありありと具体的に想像でき、物語の世界に入っていくことができました。私が学生時代に入った大学の近くの洋食屋さんとか、地元の小さな書店とか、林間学校で宿泊した合宿所とか、ロールプレイングゲームに出てきた建物とかを想像し、自分の記憶と重ね合わせながら読みました。

それはよかったのですが、私にとってワタナベの思考回路が不思議でたまりませんでした。ワタナベの脳ミソがおち○ん○んに支配されているんじゃないかと疑ってしまいました。

ワタナベの前に新しい女性が登場するたびに、私は「やれやれ」と思ってしまいました。なぜならば、物語を読み進めていくと、ワタナベと出会った女性は結構な割合で「やれやれ」と思う展開に発展していったからです。この件については多くは語りますまい。

私がこの小説で気に入ったのは、緑という女性がワタナベに自分の理想を語るところですね。

緑は『苺のショート・ケーキ』を例に出してワタナベに説明をしますが、ワタナベは理解できないようでした。私は、このくだりを読んで、緑が何を言わんとしているのかがスッと入ってきました。

喩えるなら将棋でいうところの「三手の読み」のような、1.自分はこうする、2.相手はこうする、3.そうしたら自分はこうする、という理路整然とした説明が出来るようになりたいものです。

あと、ワタナベの上級生で永沢という男性が出てきます。永沢は頭がよくて(色々な)行動力がある人物として登場し、大学卒業後は外務省に就職して海外赴任もするような人物として描かれていました。

そんな永沢ですが、私は、この「永沢」という字面を見ると、どうしてもあの某国民的アニメの登場人物(タマネギ頭)が浮かんできてしまいます…。

永沢はワタナベに対して、人生において大切なことについてすごく立派なことを論理的に語るのですが、私の頭の中の映像には、永沢はどうしてもあのキャラクターが浮かんできてしまって…🧅。


私は、この小説を読みながら、この小説に登場してくるような人物と現実に会って交わるようなことは絶対ないだろうなと思いました。それは、私と彼らとでは、住んでいる世界も、思考も、情熱のようなものも違っているように思えたからです。実際にこの登場人物のような人がいるかはわかりませんが、いたとしても自分から話しかけることはないだろうし、向こうも私に話しかけることはないと思います。

身の丈に合った生き方をしたいものだと思いました。

2023年9月10日日曜日

『アルジャーノンに花束を』で読書感想文を書くには


『アルジャーノンに花束を』を読みました。

この本は、ダニエル・キイスさんの著した小説の日本語訳版です。

『32歳になっても幼児なみの知能しかないチャーリイ・ゴードン』は、大学の研究でネズミのアルジャーノンと、どちらが迷路を早く抜けるか競争をさせられていた。あるとき、チャーリイは、アルジャーノンが受けたのと同じ頭がよくなる脳の手術?注射?を受けたところ、みるみるうちに知能が向上し、その大学の先生よりも高い知能を得ることができ、理解できることが格段に多くなった。
しかし、知能は高くなったものの、現実はチャーリイの思うような理想的なものではなく、他人とすれ違い、孤独を感じたり、焦りや苛立ちを覚えたりする。
そうしているうちに、アルジャーノンには徐々に知能が退化していく様子が見られるようになり、チャーリイは、自分の行く末を案じるようになる。。。

本のオビには、「あなたに問いかける物語-頭が良いって幸せですか?-」と書かれていました。

『アルジャーノンに花束を』を読んでみて思ったことは、私がチャーリイ・ゴードンだったら、物語の後半部分でどのような行動をとっただろうか?ということです。
私はチャーリイと同じように、家族に会いに行っただろうか?チャーリイは、幼少のころから離れて暮らすことになるまで、母親からあのような接し方をされてきていました。それでも、チャーリイは彼自身にそう遠くない時期に訪れる現実を知ったとき、家族に会いに行きました。
私がチャーリイと同じ境遇になったら、もしかしたら、家族にも誰にも会いに行かずに、どこかでその時を待っているのかもしれません。
チャーリイが手術を受けて得たものは、知識を習得する知能だけではなく、人とのつながりだったのだろうと思いました。

という感じで、もう少し具体的に、言葉を選びながら、推敲しながら感想文を組み立てていきたいと思います。

他にはどのような感想文の展開があるだろうか?それについて少し考えてみたいと思いました。

第一は、前述の通り、チャーリイに主眼を置いて感想文を書くのが一番文書を組み立てやすいと思います。自分がチャーリイだったら、あの場面でどのように思い、行動しただろうか?とか。

キニアン先生は、本当のところチャーリイのことをどう思っていたかのか?この小説は、チャーリイの経過報告という日記のような文体で進められており、チャーリイが見たり感じたりしたキニアン先生の様子しか描写されていません。チャーリイのために献身的に接してくれていましたが、本当のところキニアン先生がどう思っていたのかは、読者の想像に委ねられているように思いました。

チャーリイの妹さんは、騒動の後でチャーリイと再会し、話をすることができました。妹さんとチャーリイとの関係性で感想文を考えてみてもいいかもしれないと思いました。

手術を行った大学の先生の視点で考えてみても面白いかもしれません。チャーリイにも、チャーリイの家族にも、手術(実験とも言える)のメリット・デメリットについて説明はしている様子でした。しかし、チャーリイとは手術の前後ともに同じ目線で会話ができる状態ではありませんでした。手術前は理解力が足りなかったし、チャーリイ自身も頭がよくなる手術を切望していました。手術後は、先生らはチャーリイをアルジャーノン同様実験台にしか思っておらず、人間として扱ってもらえていなかったと思っていたからです。

この本は、原文は英語で書かれているそうです。物語の序盤は、手術を受ける前のチャーリイが拙い分で経過報告(日記)を記述しています。日本語訳では、ひらがなを多用したり、句読点を打たなかったり、実在しない漢字を使うことでそれを表現されているようでした。原文で読むことが出来れば、その辺の文書や表現の対比も面白いものになるだろうと思います。この小説を原文で読めるようになるために、外国語を習得したいと決意することもまたいい心がけなのではないかと思います(^^)

あと、この小説には登場人物がたくさん出てくるので、感想文を書くとすると、今このセンテンスは誰について書いているのか、主語を明確に記述する必要があると、今まさにこのブログを書いていながら、私は思いました。

本来であれば、この小説をもっと時間をかけてじっくり読みこんでから、感想文を書くべきであると思います。しかし、私は飽きっぽい性格で、読んでる途中で疲れてきてしまい、勝手に「ここは重要でないかもしれない」と思った部分は流し読みしてしまいます。さらに、私の本棚にはまだ読んでいない本が「積読(つんどく)」状態にありますので、これを消化したい気持ちもあり、どうしても一冊あたりに掛けられる時間が限られて(実際は時間制限をかける必要は全くありませんが)しまっています。

そんなこんなで、『アルジャーノンに花束を』は読む人によって色々な考えをもたらす小説だったのではないかと思います。ちゃんちゃん。